Kawaguchi History

埼玉県川口市

 この地における鋳物業の起源は諸説あるが、室町時代末期に既に行われていた とされる。川口鋳物は江戸時代から鍋・釜・鉄瓶といった日用品鋳物の産地としてその名 を知られるに到るが、それは荒川岸から製造に適した砂や粘土が採れた事、日光御成街道 や荒川・芝川の舟運によって原料・燃料・製品等の運搬の便が良かった事、江戸という 大消費地に隣接していた事、そして近隣からの労働力が得やすかった事等がその由来であり、 その後の発展へとつながる。
 明治時代には 永瀬庄吉 を先導に技術革新を経て、近代産業の一端を担う機械部品鋳物に転換を果たした。 これによって分業化が進み、 木型屋 など多くの関連業種を生み出した。この歴史と産業形態が川口鋳物業の特色となっている。
 景気の影響を受けやすい中で、昭和30年代には京浜工業地帯の一翼として 高度経済成長による安定成長を迎え、昭和36年には組合加入工場数636軒、 昭和37年には従業員数17,068人を数え、また昭和48年には年間 生産量40万7000トンにも達した。
 しかし、昭和40年代以降、川口が東京のベットタウン化して行くに伴い公害も問題化し、 昭和48年の オイルショック 以降生産が下降、鉄鋳物から他素材への転換による受注の減少、生産合理化の遅れ、 前近代的な過酷労働による従業者確保の困難、経営後継者不在等、更にその後の バブル経済崩壊も拍車を掛け、移転や廃業による工場跡地がマンション等に変わり つつあるのが現状である。
昭和30年代の川口駅周辺の鋳物工場群。 キューポラ からの煙で景色が霞んで見える。画像提供:川口市発行『広報かわぐち』より
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